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[映画] セッション

ヲノサトル

音楽映画でもジャズ映画でもなく、これは「スポ根マンガ」だ。 この映画の登場人物は、全員が最初から最後まで、音楽がもたらす感情の深みとか、表現の芸術的な幅といった、音楽の「本質」には、まったく関心がない。

追求されるのは、速さ、正確さ、パワー、といったフィジカルな面だけ。この映画が描く「演奏」とは要するに、音を使った「競技スポーツ」なのだ。 主人公である音大新入生の専門がトランペットやサックスといった花形楽器ではなくドラムスなのも、本来は知的で精密なコントロール作業である「演奏」という行為を、目に見える「身体運動」だけにしぼり込んで映像化するための、必然的な選択と思われる。 「競技」に勝つためのハードな特訓は、映像的にはクローズアップの連続で表現される。 練習し過ぎで破けた手の表皮! 氷のボウルに浸した手から水中に広がる鮮血! 飛び散る汗で表面が水浸しのシンバル! 永遠に続くダメ出し……からの、真夜中を過ぎた壁時計! 身体を痛めつけ、長時間続けてこそ「練習」であるぞ! と言わんばかりの、ステレオタイプなクローズアップの連続だ。

音楽映画と言うより、ここはやはり「スポ根マンガ」と呼ぶべきだろう。 また、物語のクライマックスでは、コンサート会場に急ぐあまり注意散漫になってしまった主人公の車が(観客の誰もが、くるぞ…くるぞ…と予想する通り)激しい交通事故にあって横転する。

だが重傷をおったはずの主人公は、車から這い出して血みどろのまま会場に走り出すのだ! マンガならではの、現実離れした体力としか言いようがない。 要するに、この映画は「フットボール部のルーキーvs.鬼コーチ」とか「カンフー入門者vs.鬼師匠」みたいなスポ根ストーリーを、音楽学校という「文化系」の設定で展開しているだけなのである。 何しろこの鬼教師の指導といえば、テンポが違うとか音程がズレてるとか、演奏の不正確さに対してダメ出しするだけ。

音楽について思索したり、音楽性を深めたりするような、本来の意味での音楽指導の場面はひとつもない。本作が「音楽」についての映画でないのは明らかだ。 そして主人公は、「音楽」ではなく「音楽家になること」だけが目標で、それゆえに周りが全く見えていない馬鹿として描かれている。

主人公は、ちょっと気になった女子を勝手に口説き、勝手に振ったくせに、勝手にヨリを戻したくなったりする。主人公は、パーティに出席しても「芸術家がいかに優れているか」的な上から目線の発言で周囲を怒らせてしまう。いずれも、彼がいかに馬鹿かを強調するためのエピソードだ。 その自己中っぷり、空気読めないっぷりは、たとえば『ソーシャル・ネットワーク』でのザッカーバーグの描かれ方に似ている。

とはいえあの映画では、大成功をおさめた若き億万長者がラストシーンで見せる孤独な表情に、映画としての味わいがあった。 だが本作の主人公はラストに至るまで、パワーでごり押しする「スポーツ」としての音楽をやめようとしない。

タッチダウンを決めようとライバルのタックルを振り切って走り続けるフットボウル選手のように、周りなどおかまいなしに身勝手なプレイを止めず、猪突猛進する主人公。 ところが最後の最後で、一度は主人公を陥れようとしたライバル = 鬼教師が、主人公を見ているうちに熱くなってノッてきてしまう。

力まかせに叩きまくるだけの主人公のパワー・ドラミングが、この鬼教師は、なぜか気に入ったらしいのだ。 思わず「ええーッ!こンな演奏でいいのーッ!?」と叫びたくなる場面だが。

全力で戦った後は仲直りするのがスポ根、いや少年マンガの王道なのだから。予定調和と笑ってはなるまい。 「お前には負けたぜ(ニヤリ)」

「お前こそ、よくやったぜ(ニヤリ)」

……とかなんとかいった吹き出しが、二人の頭上に見えるようではないか。 これがスポ根マンガでなくて何であろう。

たいへん楽しめました。(笑)

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