毎年恒例「劇場で観た映画」2018年版まとめました。
コメントは、観た直後ツイッターにつぶやいたものをリマスタリングしたものです。
今なら数十メートルの高さから落ちて全身を石段に叩きつけられても平気で起き上がれそうな気がする。一言でいえば、ディズニーとアベンジャーズとグラディエイターとマッドマックスにラッセンの絵を足して、割らなかった映画!
ここぞという場面で止め絵になったりスローモーションになったり突然ミュージカルシーンが始まったりする暑苦しい演出さえなければ100分で収まる話なんだけど、それでは別の映画になってしまう。
「映画」とは物語ではなく語り方なのだ、と今日もまた学んだ。
(邦題は何で複数形じゃないんだろう?)たいへん面白かった。群像劇と言うほどではないが、登場人物それぞれに味と深みがあって、人間の善意も悪意も一筋縄ではいかないものだなあ、としみじみさせられた。
主人公の母親が、喧嘩したまま娘を家から送り出してしまったシーンに号泣。あれがあったから、そのあと周囲からどう思われようとひたすらに意志を貫く(ちょっと異常な)姿に、説得力があった。
警察署長役のウディ・ハレルソンは『ナチュラルボーン・キラーズ』からずっと「ガタイと腕っ節はいいが何かおかしい役」が多くて大ファンなんだけど、今回はハレルソン史の中でも屈指のかっこよさ。
ネタバレなしで、最初から最後まで予備知識なしで見たほうが「えー?どうなるの?」とグイグイ引き込まれる映画だと思うのでストーリーは語らないが、最後どう終わるかと思いきや「映画的に絶妙な終わりかた」だった。おかげで、タフでハードで身も心も痛い話だったのに、不思議なほど爽やかな後味。
一つだけ、サウンドトラックに関してはネタバレさせてください。劇中何度かある、主人公が心を決めて闘いに赴く「キメ」のシーンになると、決まって西部劇っぽい「戦闘のテーマ」みたいのが流れるのは笑えた。なるほどそういう映画かと。
なにしろ最初から最後まで、全カットじわじわーっと動き続けて決して止まらないキャメラが実験的だった。極端な逆光や、光と影のコントラストの多用は、フィルム・ノワールやB級SF&ホラーへのオマージュか。
オマージュと言えば、他にも古き良き時代の映画やミュージカル、ポピュラー音楽などの引用が多数。これは単なる「映画的お遊び」ではなく、孤独な弱者が陰鬱な現実と闘うには、夢と愛と想像力が切実に必要であることを、象徴しているように思えた。
また、宇宙開発を描いた映画『ドリーム』も連想させられた。あの作品と同じように、愛国心と少数者差別が表裏一体を成していた冷戦時代の話なのだ。
障碍者、芸術家、下層労働者、黒人、女性、ゲイ…… と何重にも差別されていた主人公とその仲間が、同じように弱者である異邦人(人じゃないけど)を救い出す寓話だ。
また後半には、想像力によって魂が飛翔する瞬間を見せてくれる、まさに映画にしか表現できないドリーミーな場面があって、涙が溢れて止まらなかった。
(ところで日本版では一箇所だけボカシの入ったシーンがある。この場面、じつは敵役となる男の性癖と、なぜ主人公の女性に妙に執着するかを説明する重要な場面になってるところが、上手いなと思った。そしてこの伏線、彼の末路としてちゃんと回収されます)
アフリカにもバーフバリがいたとしか言いようがない。感想は「ティ・チャラ!ティ・チャラ!ティ・チャラ!ティ・チャラ!ティ・チャラ!」……以上。
マジック・ニグロ(白人映画にありがちな、白人を助ける”いい黒人”)を反転したような役柄で登場する「いい白人」役のマーティン・フリーマンがイイ味出してた。この人はエドガー・ライト組の常連ですね。
映画の中のグッときた台詞。
「危機に瀕した時、愚者は壁を建てる。賢者は橋を架ける」
なんか恥ずかしい邦題だけど、原題は "The Last Word"。「最期の言葉」「遺言」といったところか。
頑固ばあさん(シャーリー・マクレーン)が物書き志望の娘と過ごすうち、両者とも変化していく…… という、老若系バディムービーの王道ストーリー。
そこに途中から、古いレコードとラジオという小道具が登場し、映画は俄然グルーヴし始める。
本作のパンチラインは、頑固ばあさんから若い娘への助言 “You don't make mistakes. Mistakes make you.“ ニュアンスとしては「人生に間違いなんてないから大丈夫。むしろ間違いによって人は成長できるんだよ」って感じ。
主人公は11歳の娘との父子家庭。だから、どうしても帰りたい。だけど、この状況では「人」として帰れない……!! という設定に、同じ父子家庭の人間としては、もう涙腺崩壊ですよ。
1980年代の空気感を再現した色調の撮影には、ほぼ同時期に起きたイランのアメリカ大使館人質事件を題材とした映画『アルゴ』を連想した。
脚本が秀逸。何が起きているのか知らない主人公の視点で、我々観客もリアルタイムで惨劇の現場に居合わせられていく感覚は、民族浄化の史実を描いた『ルワンダの涙』『戦場のジャーナリスト』にも似ている。
とはいえ、必ずしも史実にこだわらない、フィクションならではの「かっこよすぎる場面」が続出して、観る者の胸を熱くさせるのだ。
『コンボイ』みたいに集結するタクシー軍団とか。望月三起也先生のマンガみたいな「ここは俺が食い止める。お前は生き延びて、この状況を世界に知らせろ!」的な自己犠牲の場面とか。
ちなみに、この映画を観た後は、間違いなくキムチで白いご飯食べたくなるので要注意。それも口で息ハーハーしたくなるぐらい辛いやつ。
回収も説明もされない不条理なコント場面の連続に、終始イヤーな汗をかき続ける作品(ほめ言葉)。
特筆すべきはサウンドデザインの巧さで、一部の音を極端に強調したり、フレーム外の出来事を音だけで示したり、功績大。
現代アート界を舞台にしつつも、アートそのものの価値判断には踏み込まず、主人公が属するクラスの「借景」として「アート」を持ってきただけという印象(良い悪いではなく)。
ただしアートとそこに集う人々については、あるある的な小ネタ満載で苦笑せざるをえなかった。
その日暮らしを続ける母娘が次第に追い詰められ荒んでいく様子に、観てる間ずっと心が締め付けられた。
でも同時に、どんな状況であっても、虹に見とれたり、雨の中ずぶ濡れではしゃいだり、生きてると実感できる美しい瞬間は人生に時々あることも気づかせてくれる。
終盤で、今までタフだった悪ガキ娘がついに泣き出すシーンには、こちらも号泣。
だけど、そこから始まる「疾走」に息をのんだ。映画が登場人物の不幸を乗り越えて、本当に走り出すのだ。
現実は解決できないことだらけかもしれないけど、映画は現実を超える夢だし、現実を超えるための勇気を与えてくれる存在だと、あらためて感じた。
虚構と現実は別、と思う人には通じないかもしれないけど。マンガ、小説、映画…… 何であれ創作物は、虚構だからこそ「こう振るまったらかっこいいな」というモデルを提供してくれる。現実の先の未来を見させてくれる。見た人の行動の変化を通じて、長期的には世界の変化に貢献できる。そう信じてる。
ところで、モーテル管理人のウィリアム・デフォーがかっこよすぎて悶死した。
主人公母娘に家賃を督促する立場なのだが、なんだかんだ言ってずっと二人を気にかけてるイイ人なのだ。けれど彼自身、仕事も人生もハードだ。夕刻には煙草の一本も吸いたくなる。そんな表情が抜群によかった。子供たちに近づく変質者を追い払うシーンで見せる「心の底からの怒り」も最高だった。
この場面は、本作の中でも特殊な緊張感があった。貧しい人間、特に子供のような弱者ほど危険にさらされやすいことも、世の中にはそれに立ち向かう「普通の人」がいることも示されていた。デフォー本当にかっこよかったなあ。
しかし、この映画は夏に観たかった。自分の中の「夏に観るべき映画」という長いリストに加えておこう(『12月に観るべき映画』という長いリストも持っている)
IMAX3Dで観てよかった。登場人物が3Dゴーグルで仮想世界に没入する設定なので、その没入感を実際に体験できる感じ。アバターが被弾するたび「うわっ!」とか身体的にリアクションする劇中のプレイヤーたちは、じつは、フィクションに過ぎない映画の画面に一喜一憂する、我々観客の姿でもある。
面白かったのは「リアル世界」→「没入してる仮想世界」→「その仮想世界内でも、カメラや鏡面やデバイス経由でものを見る状態」と何層も重なった、入れ子状のリアリティ。『トータル・リコール』『マトリックス』『インセプション』など、そもそも「リアリティ」とは何かを問う系映画の一つ。
物語内容に関しては既に多くの方々が語っているので触れないが、サウンドデザイン的には、画面に映ってない人の声の用い方や、音質の操作による遠近感の表現が緻密だった。
また視覚的にも「あえてフレーム内に入れないことで観客の想像力を喚起する」技が随所に見られた。たとえば、空に上がる花火そのものは映さないのに、音と家族の表情だけで、観客に花火を想像させるシーンとか。
食事の場面が何度も出てきた。大した事のない食材がじつに美味しそうだった。鍋料理の、汁がしみこんだ麩とか。カップラーメンに浸して、じゅくじゅくとなったコロッケとか。
そういえば韓国映画「タクシー運転手」でも、都会から来た主人公が田舎の家庭でキムチとごはんをごちそうになるシーンにぐっときたのだった。
腹のへった人に何か食べさせてやりたいと思うのも、他人が自分のために調理してくれるとやけに美味しく感じるのも、人間を人間たらしめる根本的な「何か」だと思う。
たとえば映画という虚構の中ですら、人が人に何か食べ物をすすめる場面を目にすると温かい気分になるのは、その一つの証拠ではないかな。
チューバッカが、主人公じゃないかってぐらい活躍してた。
ほぼ全編、狭い美容室とその上階だけで展開される密室群像劇。ドアを隔てた路上で起きている激しい戦闘が、映像はいっさい見せないのに、音響によって表現される。
映し出されるのは女性だけの聖域だが、会話やそれぞれのふるまいを通じて次第に「男たちの世界」や「制度」や「社会」が透けて見えてくる仕掛け。
本作に登場する中で一番好きなキャラは、主人公たち女性グループをサポートしてくれる、明らかにゲイだろうって感じのオシャレなスタイリストくん。ちょい役だけどいい味出してるなと思ってたら、最後に再び登場して、グッとくる良い台詞を吐いてくれた。
トム走り! トム・ドライビング! トム・パルクール! トム・スカイダイビング! トム・ボルダリング! トム・縄登り! 徹底的に、トムのトムによるトムのための映画であった。
トム・クルーズが苦手な人が観たら気が狂うのではないかと他人事ながら心配になるほどトム・クルーズな映画であった。そういう人のためにサイモン・ペグが配置されていたのかもしれない。
一言でいえば「ショー・マスト・ゴー・オン」。カメラは止められない。幕が開いたらショーはやめられない。人生も、止めてやり直すことはできない。そんな人間たちの、美しさやホロ苦さや馬鹿馬鹿しさが、驚嘆と爆笑と涙で描かれ、最後は得体の知れない感動に包まれる。
あと屋上ゾンビの場面には『桐島、部活やめるってよ』のラスト・シーンを思い出した。あの作品もまた、もの作りに魅せられた人間の愚直さを描いた作品だった。いい映画は、他の映画の記憶を無限に喚起するよね。
完全に一条ゆかり先生のバイブスでした。
教訓とか映像的に凄いところとか別にないんだけど、なぜか「もう一度観たい」と思ってしまう種類の映画。女優陣の「圧」か。「圧」なのか。
なんというか、一流百貨店のハイブランドジュエリー売り場を回遊してきたような感覚。時間が経つほど、あのキラキラした空間にもう一度身を浸したいという気持ちが抑えられなくなってくる。
ずっと、舞台になっているこの土地はどこだろうな…… コギャルといえば渋谷だけど渋谷の景色じゃないよな…… とか思いながら観ていたが、横浜ナンバーの車が出てきて初めて「あ、神奈川か」と気づいた。
劇中とても大事な電話がかかってくる場面で(※ オリジナルの韓国版を観ていたので物語は知っていた)「頼む……!よくあるTVドラマみたいに、電話口で相手の言葉を復唱しないでくれ……!」と心の底から祈ってしまった。祈りが通じてホッとした
これはね、SF映画というよりも、はみ出し野郎どもが悪態つきながら仲間のためにひと肌脱ぐ『エクスペンダブルズ』とか『ワイルド7』的な漢(おとこ)系「友情軍団映画」だったので、そういうのが好きな人におすすめ。
『SUNNY 強い気持ち・強い愛』の次に観ることによって、自分の中で何かのバランスが取れた気がする……
「たまたま彼氏の実家に行ってみたら、途方もない大金持ちの御曹司だった!(ハート)」……みたいな、まあ日本の少女マンガで何度読んだかわからない、王道すぎるほど王道なストーリー。
ただ、これが香港映画だったら驚かないけど、「メジャー配給のアメリカ映画なのに全員アジア系キャスト」ってのは革命的ですよね。
薄暗い部屋に窓から光が入る(もちろん左側から)フェルメールの絵画をそのまま再現したような映像美に驚嘆。
絵描きとモデルの恋っていう通俗的な話なんだけど、それだけにとどまらず、実際にあったというチューリップ球根へのバブル投機とその暴落というお金の話が絡まってスリリングに展開するところに、現代にも通じる人間の愚かさを感じた。
あとクリストフ・ ヴァルツ演じる、主人公の夫がイイ人なんすよ。イイ人すぎるぐらいイイ人なんすよ……(涙)
枠組みとしては『チャイナタウン』や『ロング・グッドバイ』系の、真相を探ろうとする主人公が得体の知れない闇にずぶずぶとはまっていくストーリー。デヴィッド・リンチの映画みたいな、解決しない謎や思わせぶりな変態美女とかが好きな人には、たまらんのではないか。
これはソフトが発売されたら、自宅のパソコン画面で観てみたいと思った。フィクションとリアルの区別がつかなくなりそうだ。
「パソコン画面だけで進行する映画」というアイディアを、しかしちゃんと面白く見せるためのあの手この手。
脚本の巧さに舌を巻いた。主人公と観客のミスリードを誘い、物語を二転三転させる様々な仕掛け。結末にたどり着いてみれば、確かにあちこちにヒントはあったなと。
面白かったのは、パソコン画面上の挙動(カーソルを移動したり、対象をクリックしようとしてやっぱりやめたり、書き込んだ長文を削除して打ち込み直したり…)や、その間合いやタイミング自体が、画面には映っていない主人公の心理を描写する見事な「演技」となっていた点。
たとえば、ラインでもショートメールでも、ガーッと書き込んじゃった後「んー…これはやっぱりやめとこう」と全削除してあらためて書き直すことって、よくあるじゃないですか。
本作にもそういう場面が出てくるんだけど、これがじつは感動的なラストへの伏線になっていて、泣かされた。
そして、とにかく子を持つ親としては、我が子のSNS利用状況とか友人関係とかが把握できていなかった父親(主人公)の焦燥や苦悩がまったく他人事ではなく、最初から最後まで感情移入しすぎて、グッタリ疲れました……。
ちなみに、映画の冒頭で娘の成長をデジタルメディアに記録していく描写には、Google ChromeのCM "Dear Sophie" (2011)を思い出した。
むかし、保育園から連れ帰った息子氏と一緒に、アニメを観て絵本も読み聞かせた、あの「100エーカーの森」が、目の前に広がった。プーやティガやピグレットたちに再会し、「♪くーまのっプー」というテーマソングを耳にしたら、得体の知れない液体が目と鼻から溢れ出て止まらなかった。
なのに、一緒に観に行った息子氏に「いやぁ、懐かしかったよね!」と話しかけたら「え?初めて見るんだけど、何? あのクマ?」と、全く記憶に残っていなかったようので、意気消沈……。
ところで劇中、何度か出てきたフレーズ ”Nothing leads to the very best of something” こそは、この映画のテーマだよね。「何もないのが最高なんだ」と意訳しておきます。ミース・ファン・デル・ローエの ”less is more” という言葉にも通じる人生哲学。
名言と言えば、「仕事が忙しいから仕方ないんだ」と家族との余暇を反故にしようとする主人公に妻が言う”Your life is happening right now in front of you” (人生は今この瞬間、あなたの目の前で起こっているんだ) 」という台詞も、心に響いたな。
子供の頃、たしかロードショー番組で観て、フェリーニ的な仮装行列の祝祭感しか記憶に残ってなかったが。リバイバル上映を観なおしたらまったく印象がちがった。終盤で登場人物が吐く台詞、「遊びすぎた、寝る時間だ。家に帰ろう」とは…… なるほど、そういう意味だったのか…… やっとわかった。
ふりかえれば、初登場シーンで主人公の読んでるのがシェークスピア『真夏の夜の夢』だったり、中盤で「人生は劇場だ」なんて台詞もあったりと、ラストに向けてあちこちに伏線はあったのだなあ。
しかし、まわりの観客を見渡して思ったけど、世の中には本作のような昔のへんてこな映画を観にわざわざ出かけていくような人がいる。それは、人間を2種類に分けたら、まさにあの映画の「病院」に、自分から入るような人種なのかもしれない。
噂どおり、最後のライヴ・シーンは、演技(というか"イタコ演奏")も撮影も凄まじかった。ドルビーアトモスで観てよかった!
ていうか、まず冒頭、20世紀フォックスのファンファーレにニヤリとしたよね
あと後半で、バンドが再生するために「今後は誰が作曲しても印税は皆で分ける」って決議するのがリアルだったな。当方も過去、プロデューサーにこれを言われたことがありましてね。メンバーが印税ほしさに自分の曲をシングルカットしたがるとクオリティが(文字数
しかしバンドがうまくいくのって、「いるべき人」がうまい具合に「いるべき場所」にそろった時なんだよね。その確率は非常に低い。だからこそ貴重。皆さんも好きなバンド思い浮かべてそう思いませんか?よくこんなメンバーが集まったなと。
映画館がこれほど男だけで埋まってるのを見るのも久々だった(笑)
これが、オリジナル版 以上に不条理すぎて最高だった。ある種の神話劇のようで。
薄汚い宿舎も濁った水道水も、視界をさえぎる雨もこびりつく泥もぬかるみも、ぼろぼろ崩れる絶壁も腐木の吊り橋も行く手を阻む密林も、あらゆるものが不快で、最高だった。その汚れきった空気感は、『神々のたそがれ』にも何か近いような気がした。
劇中、暴風雨の中でボロボロの吊り橋を、重量級のトラックで渡ろうとして、左右ぐらんぐらん揺れて落ちそうになる、めちゃくちゃ怖いシーンがある。( ポスターでもキービジュアルになっている)
このシーンの撮影について、パンフレットには「撮影中、トラックは5回ほど川に転落した」ってごく普通に書いてあって、震えた(怖笑)
映画を2種類に分けるなら『地獄の黙示録』とか『アギーレ/神の怒り』とか『マッドマックス 怒りのデス・ロード』とか、そっち側の映画だ。打ち勝つことなど到底できそうにない、野蛮で不条理で世界にわざわざ踏み込んでいく人間の物語だ。
暗闇に身を沈めて、そういった狂気の世界にどっぷりと浸るのが、なぜか好きでたまらない人種に、強くおすすめしたい映画である。
ストーリーそのものにもヤラれたが、演出も撮影も編集も素晴らしかった。冒頭で横長のスクリーンを車が走り抜けるショットに始まり、主役3人が河原で語り合うシーンの完璧な構図での長回し、仮兄妹が別れるシーンの切り返しのリズム、金子ノブアキさんが車の中から主人公を睨めつける顔。
一番泣かされたのは、劇中に2回出てくる加藤諒さんの「変顔」のシーン。なぜ人間には笑う権利があるのか、いや笑わなくてはならない時があるのか、笑いに救われることがあるのか、教えてくれた。
カメラが引いて、労働者やサラリーマンが歩く「普通の風景」を必要以上に長く映し続けるラストシーンには、「この映画は虚構だけど、ほんとは虚構じゃない。今この国のどこにでもありえる話なんだ」というメッセージを強烈に感じました。つらいけど観るべき映画。
映画の半分は音でできているという事実を、ここまで利用しきった作品を観たことがない!電話越しの声、周囲の音声、様々な環境音やノイズ、そして要所要所に隠し味的なアンビエント・サウンドまで、きわめて精密にミキシングした音響編集者をまずは讃えたい。
電話の音に集中して主人公と一緒に耳をすませていると、雨の街路、子供だけが取り残された家、夜の高速道路を疾走するワゴン車……見えないはずの風景や人物が頭の中に浮かび上がってくる。観客の想像力を信頼し切ったこの映画では、誰もがそれぞれの「映像」を楽しむことができるはずだ。
映画の作り方じたいの斬新さという意味では『search/サーチ』や『カメラを止めるな!』、音だけで映像を浮かび上がらせる手法の『ラヂオの時間』、善と悪の割り切れない人間存在を描いた『スリー・ビルボード』なども想起。そしてこれらの作品と同様、見終えた後には何とも言いがたい感動が訪れた。
── というわけで2019年も、劇場の暗闇に身を沈めるのが楽しみです。
(2018.12.31)