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  • ヲノサトル

「自分語り」より「他人語り」


大学で十年来、映像のワークショップ(演習)を担当している。 そこで「まずは自由に」と作品制作の課題を出すと、「自分」や「内面」をテーマにした作品を持ってくる学生がとても多い時期があった。みんな「オリジナリティをどう表現するか」に悩みまくっているようだ。 たとえば実家近くの公園の景色とか、ペットの猫とか、幼少の自分が映ったビデオテープとかを、ノスタルジックな音楽に合わせて編集してきました、みたいな感じの心象風景イメージビデオ。観せられる側としては「ああ、こういうセンスなんだ…」としか言いようがなかったりする。 そこで一計を案じ、ドキュメンタリー作品を撮る課題に切り替えてみた。テーマは「他人」。歴史や地域についてのドキュメンタリーなどは時間もかかるし難しいが、人間が対象なら短期間でもそれなりに掘り下げられるのではないか、という意図だ。 すると、もちろん玉石混淆ではあるが、中にはものすごく面白い作品が出現し始めた。 パッと思い出すだけでも、ゴミ回収業に就いた友人、実家のコンビニで働く友人、親戚が営むボーリング場の裏側、歌舞伎町のホストクラブ、学生プロレス団体、芸者置屋、幼稚園の先生、LGBTの政治家、ビジュアル系バンドマン、地方アイドルの本音……と実に幅広い被写体。毎週、学生の持ってくる素材を観るのが楽しみになった。 ドキュメンタリーにはぶっちゃけ「素材=被写体で勝ち負けが決まる」ところがある。この一点で、技術の拙劣な学生にも感動的な作品を撮れる可能性がある。 劇映画やCGを作らせたら当然、資金や技術力のあるプロフェッショナルの作品にかなうわけがない。けれど誰も知らなかった興味深い対象をルポルタージュしたら、アマチュアの作品でも「へええ…」と観客の関心を惹きつけることはできるのだ。 さらに言えば、学生という立場だから、個人的な人間関係があるから、その年齢だからこそ撮れる…いや「撮らせてもらえる」作品というのもある。一期一会のその出会いに、意図せずともオリジナリティが輝き始める。 「自分」をテーマにすると、極端に言えば「だって自分はこうなんだからしょうがないじゃん!ありのままの俺を見てくれ!愛してくれ!」みたいな作品になりがちだ。「他人にどう観られるか」よりも「自分が何を観せたいか」の方を優先してしまう。 ところが「他人」がテーマだと、撮ってる「自分」には理解できない何かが撮影中に発生し始める。そのとき作者=撮り手は何かを考えたり解釈したり、揺らぎ始めざるを得ない。その変化が映像に刻み込まれる。そこが面白い。 別な言い方をしよう。「自分語り」の作品には、作者(撮る側)と観客(観る側)しかいない。しかし「他人語り」の作品には、作者(撮る側)と被写体(撮られる他者)のコミュニケーションが映像内に発生する。それが、見る側の好奇心や想像力を刺激する。 人はなぜ映像を見るか。どんな小さなものであれ「事件」を目撃したいからだ。自分語りのほとんどは「事件」ではなく単なる「状態」の提示にすぎないが、他人語りの映像には「事件」が起こりやすい。 美術でも音楽でも文学でも、そもそも作り手というのは「俺が俺が」と語りたがる「自分好き」が多いわけだが。自分の内面なんていうあやふやなものを表現するより、自分の外を見渡して、未知のものと出会って、そこで得たものを形にしていく方が、結果的にはオリジナルで面白いものが作れるんじゃないか。

そんなことを僕自身、この演習から学んだのであった。

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