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  • ヲノサトル

ビリー・ワイルダーのスピーチ


1987年 第60回アカデミー賞 アービング・G・タルバーグ賞 受賞スピーチ 1988年4月11日

受賞者:ビリー・ワイルダー  プレゼンター:ジャック・レモン

どうもありがとう。最も威信ある賞をいただいたと理解しております。もちろんノーベル賞は別として。(観客・笑)

えーと、これをそっちに。(トロフィーをレモンに渡す)どうも壊れちゃいそうで。

深く感謝いたします。アカデミーの理事やメンバーの皆さんに、そして世界中の何百万というファンの皆さんに。特に都市部の方々。(観客・笑)(訳注:ワイルダーは都会を舞台にした洒落たコメディで有名)

とりわけ、ある一人の紳士には本当に感謝しています。彼の助けがなかったら、私は今夜ここに立っていなかったでしょう。

彼の名は忘れましたが、あの思いやりは決して忘れられません。メキシコはメヒカリ市のアメリカ領事でした。

さて想像してください。今は1934年。

ヒトラーの暴虐が始まった1年後です。我々はみんな亡命していました。チューリッヒ、ロンドン、パリなどに。

私はラッキーでした。ハリウッドに脚本が売れ、6ヶ月間の旅行者ビザが取れました。それでハリウッドに来て仕事を始めたんですが、6ヶ月なんてあっという間に過ぎてしまいました。

私は帰国したくなかった。アメリカにい続けたかった。

でも、それには移民ビザが必要だと言われました。そのために一度出国して移民ビザを取得し、正規の書類を持って再入国しなければならない。

そこで私はメヒカリに行きました。カリフォルニアから国境を越えて一番近いアメリカ領事館があったからです。

領事のオフィスに入る時は、汗びっしょりでした。暑かったんじゃありません。パニックと恐怖に襲われていたんです。

書類が山ほど必要なのはわかっていました。宣誓供述書、前の住居の正式な証明書、犯罪者や無政府主義者だったことはないという誓約書。

私は何ひとつ持ってなかった。 ゼロです。

あったのはパスポートと出生証明書、それに私が無害だと保証する何人かのアメリカの友人の手紙だけ。絶望的でした。

領事は、ウィル・ロジャーズにちょっと似てたなあ、彼は私の不十分な書類を調べました。「これだけですか?」「そうです」

説明しておきますが、ベルリンからは知らせを受けてすぐ逃げ出さなければならなかった。ほんの20分ぐらいで。

隣人がこっそり教えてくれたんです。制服の2人組が私を探してるって。スーツケースにわずかな物を投げ入れ、パリ行きの夜行列車に乗るのがギリギリでした。

領事は私をじっと見て、言いました。「あのですね。たったこれだけの書類で、私にどうしろと?」

説明しました。ナチスドイツから書類を取り寄せようとしたけれど、返信がないのだと。

もちろんドイツに帰国すれば書類は手に入るでしょう。でも私はそのまま列車に乗せられて、ダッハウの収容所に送られるでしょう。

領事は長い間じっと私を見つめていました。理解してくれたかどうか、私にはわかりませんでした。

話にきいていました。家族全員でビザを何年も待ち続けている人たちや、二度と入国できなかった人のことを。信じてくれ。私はアメリカに戻りたいんだ。まずいぞ、これじゃ……。

私たちはそこに座って、見つめ合っていました。

領事も私も、まったく口をききませんでした。

やがて彼は言いました。「あなたは何をしてるんですか? つまり、ご専門は?」「映画の脚本を書いてます」「そうなんですか?」

領事は立ち上がると、ゆっくりと私の背後に回りました。値ぶみされているように感じました。

それから彼はデスクに戻ってきて、パスポートを取り上げ、開いてゴム印を押しました。(バン!バン!と手で卓を叩いてみせる)パスポートを返してくれました。

そして言いました。「良いものを書いてくださいね」(観客・笑)

54年前のことです。あれからずっと、良いものを書こうとしてきました。(観客・笑&拍手。しばらく止まない) 私は絶対に、絶対にメヒカリのあの恩人を失望させたくなかったんです。

それでまあ、振り返ってみれば幸運な人生を送ってこられた。

まったく予想もしていませんでしたよ。こんな、その、タルバーグ賞だなんて。皆さんは疑いなく、世界で最も寛大な人々です。

それから、I.A.L. 。(訳注:脚本家 I. A. L. ダイアモンド。ワイルダーの長年の共作者だった。このスピーチの10日後に死去している)きみも観てくれていると良いんだが。だって、この賞は、きみのものでもあるんだから。回復を祈っているよ。 本当に、どうもありがとうございました。(観客・拍手)

(訳:ヲノサトル)

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