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  • ヲノサトル

抽象的な身体に具体的なイメージが宿る


Co. 山田うん新作ダンス「舞踊奇想曲モナカ」公演終了。 ご来場の皆様まことにありがとうございました。 + + + + + さて今回、アンケート用紙やツイッターなどで返ってきた観客の感想は、実に多様なものだった。「へえー。こんな見方もあるんだー」と、作っているこちらが驚くほど深淵なものやら、意表を突いた見立てやら。 演劇や映画のような「物語」も「設定」も全くない、身体と空間を見せるだけのシンプルな作品だっただけに、見る側は自分のイマジネーションを自由に投影できたのかもしれない。 表現は抽象的な方が、鑑賞者の想像は具体的になる。 たとえば、能楽。能面には表情の変化というものがない。だからこそ逆に、観客は怒りや哀しみや様々な感情を、そこに観ることができる。 あるいは、文学。具体的な描写なしに「女が」と書いてあれば、読者はそれぞれ理想の「女」を、いかようにも想像できる。 ところが、これが映画化され、女優が実際の画面に出てくると、「女」はその女優以外ではなくなってしまう。観客には自分だけの「女」を想像する余地はなくなってしまう。 ダンスで、たとえば男女が踊る場面があったとしよう。 純粋に「動きとして美しい動作」を振り付けただけであっても、そこに「恋愛」的なものを感じる人もいるだろうし、「コミュニケーションの難しさ」「感情のすれ違い」といった内面性を感じる人もいるだろうし、単に「うわ、この一連の動きは見事!」と所作そのものに反応する人もいるだろう。 ところが「これは男女の恋愛を描いた作品です」と先に説明されてしまうと、いま自分の目に見えているものに先回りして、頭で「ははあ、このダンスは二人のすれ違いを表現してるわけだ…」などと「意味」を追ってしまい、自らの想像力を閉ざしてしまうことが、往々にしてある。 音楽が非常に危険なのも、見えているものに特定の「意味」や、時には「物語」を与えてしまう点だ。たとえば男女が立ってるだけでも、甘いメロディを流せばなんとなくロマンチックな場面に見えてしまう。 ダンスの自由を壊さないよう「意味」や「物語」が生まれることは極力排除しつつ、エモーショナルな「流れ」や「空気」を提供すること。音楽制作者としては今回そのあたりが、自分に課した裏テーマだったのだが… さて結果はどう受け止められたかな。 + + + + + ともあれ、ダンスが面白いのは、これ以上具体的でありえない生身の身体を見せつけることで、逆に、いかようにも想像が可能な抽象の世界へと鑑賞者の心を飛ばす、その「振り幅」の大きさかもしれない。 さらに反対の言い方をすれば、身体がダンサー個人の属性や、様々な「物語」から解放され、極限まで抽象的な存在になった時はじめて、観客の心は時間も空間も超越し、自由で豊かで具体的なイメージを楽しむことができるのかもしれない。 そんなことを考えさせられた公演でした。

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